「涼宮ハルヒの消失」が青春の一冊だと言ったら笑われるだろうか
特別お題「青春の一冊」 with P+D MAGAZINE
僕がまだ心の底から宇宙人や未来人や幽霊や妖怪や超能力や悪の組織が目の前にふらりと出てきてくれることを望んでいた時の話だ。
僕は小説家になりたかった。
小説家といっても、太宰治や夏目漱石の様な文豪になろうという訳ではない。僕がなりたかったのはあくまでもライトノベル作家であって、エンターテインメントの提供者だった。
なぜライトノベル作家になりたいと思ったのか。
それに答えるのは容易だ。
僕ぐらいの世代(1992年周辺)がちょうど思春期に突入しようとする頃、世間はちょっと変わり始めていた。
簡単に言うとオタクであることがあまり恥ずかしい事ではなくなった。
ニコニコ動画のサービス開始、深夜アニメ枠の増加など、理由は多くあげられるだろう。
僕の友人達も自分専用のパソコンを持っているのがほぼ当たり前で、メッセンジャーでチャットをしたり、アニメの実況をしたりしていたのを思い出す。不良っぽいあいつだってゼロの使い魔に夢中だったのだ。
アニメなどのオタク文化がサブカルチャーの枠に収まらなくなってきたのが僕らが中学や高校でバカをやっていた時期ではないだろうか。
そんな背景があって、僕はアニメの原作として手に取ったライトノベルにはまっていき、まもなくライトノベル作家になりたいと思い始める。
その手に取ったライトノベルというのが涼宮ハルヒの消失を含む涼宮ハルヒの憂鬱シリーズだった。
ライトノベルは面白かった
僕は元々本を読むのが好きだったし、映画などを観て知らない世界を知ることが好きだった。
たとえニコニコ動画などのネットを中心としたオタク文化の一般化が起こらなくても、遅かれ早かれアニメやライトノベルにハマっていたと思う。
そんな僕が初めてまともに観た深夜アニメが涼宮ハルヒの憂鬱。
退屈で平凡な暮らしを送りながら、しかしそれを良しとしてきた高校生キョンが、涼宮ハルヒというとんでもなく活発で常識破りな少女と出会う事から巻き起こる様々な事柄を描いた青春SFファンタジーだ。
オカルト、七不思議、宇宙との交信、とにかく普通じゃない事に飢えている涼宮ハルヒを中心として結成されたSOS団(世界を大いに盛り上げる涼宮ハルヒの団)が遭遇する様々な不可思議がこの小説の中心点だ。
思春期の少年を魅了した「涼宮ハルヒの憂鬱」が持つライトノベル要素
思春期。
それは抱くべき理想と知るべき現実の適切な配合量を探りながら、不満との付き合い方を挫折や失望から学ぶ時期ではないだろうか。
右手から出る炎より、「右手が恋人」を卒業しよう躍起になるのもこの時期だ。
曖昧なファンタジーを信じる体力がだんだんと衰えてきて、より現実的でイケてる物が欲しくなる。カーちゃんが買ってきた服がこの世の物とは思えないぐらいダサく思える。
そんな思春期のナーバスな心を刺激する要素を、この涼宮ハルヒの憂鬱シリーズは多大に孕んでいる。
勝手に不可思議で面白いイベントが起こる
斜に構えた如何にも思春期丸出しな主人公キョンには、僕を含む多くの男子が共感しただろう。
「なにか面白い事が起こらないだろうか」
そう思っても大した行動力も知識も無く、エロ動画を観るぐらいしか脳が無かった僕らはオナ○ニーをする時間を除いて常にそんな事を願っていただろう。
空から降ってくる女の子
突然明らかになる許嫁の存在
都合のいい超能力の発現
とにかく何でもいい。このクソつまらない現実から解放されたい。
そんな切実な願いが全国の授業中の教室から漏れ出していた。
そんな僕らの理想を見透かした様に、涼宮ハルヒの憂鬱の世界は僕ら魅了した。
宇宙人、超能力者、未来人、とにかく魅力的なキャラクターが当然の様に存在して、退屈な学校生活が一変していくストーリーは、たとえそれが虚構であっても憧れるものだった。
僕らが羨ましいと思う状況を「しちめんどくさい」と一蹴するキョンに憧れたし、涼宮ハルヒが引き起こす付き合いきれない厄介事も退屈な現実より輝かしく映った。
とにかく「突然、都合よく、美少女たちに囲まれながら非日常を駆け抜ける」ことは思春期の僕にとっては魅力的な夢だった。
現実離れし過ぎないちょうどいい「等身大+α」の設定
厨房や高房の知識なんてたかが知れている。
あんまりにも複雑で高尚な設定は理解出来ないし、読んでいたら知らないうちにネットでエロ動画を探し始めてしまう。
その点、涼宮ハルヒの憂鬱シリーズは単純だ。
高校生活+非日常イベント
授業中の妄想にも通ずる要素が沢山盛り込まれていて、考える必要もなく引き込まれていく。
こういった理解しやすく、思春期に抱く不満を疑似的に解消してくれる設定は他のヒット作にも通ずるだろう。
こういった手が届きそうで届かない、丁度のいいファンタジー感が多くの読者を魅了した。
「涼宮ハルヒの消失」が生むカタルシスに衝撃を受けた思春期真っただ中の僕
僕が「うらやましい! 俺とポジション代われ!」と幾ら妬もうと主人公のキョンは「面倒だ」とすべての面白イベントを否定し、あくまでも「俺は巻き込まれただけ」という立場を貫き続けてきた。
そんな慢心にも似た惰性の中で、いかに自分の日常が不可思議で幸せであるかを忘れた主人公の目を醒まさせるのが第四巻に当たる涼宮ハルヒの消失だ。
消えた涼宮ハルヒと非日常
今まで当たり前にキョンの日常を引っ掻き回していた涼宮ハルヒが突如消える。
おまけに宇宙人も超能力者も未来人も無かった事になっていた。
そんな序盤の展開に、僕は一気に惹き込まれた。
残酷なぐらいに退屈な現実に放り込まれた主人公に共感を覚えたのかもしれない。
いかに今までの面倒事が楽しくて掛け替えのない物だったのか、そのことを身をもって味わう主人公とその葛藤がこの巻の見どころだ。
積み上げた物をぶっ壊す事によって生み出されるカタルシス
ドラマの最終回で不治の病におかされたヒロインが死んでしまう。
一言でいえば陳腐だが、そのドラマを一話から観ている人にとっては泣くに値する結末だ。
積み上げられたストーリーの中でキャラクターに愛着が沸き、その世界を身近に感じる。
だから、キャラクターが死んでしまったりすると僕らのリアルな感情が刺激される。
そんな物語のカラクリをうまく使ったライトノベルが涼宮ハルヒの消失だと思う。
単純だった僕は「俺もいつかこんなカタルシスを生む作品を書きたい」と思った。
等身大では書けないのが物語だと知った15の僕
そんなこんなで、僕は小説を書き始める。
ラノベのヒット作をごった煮にしたようなクソ小説だ。
書いている内はいいのだが、書き終わるとクソ以外の何物ではない。
僕の書いた話はとにかく薄っぺらかった。
なんで涼宮ハルヒみたいな小説が書けないんだ! と悩んでいた僕はやがて気が付いた。
面白くて人を惹きつける物語を書くためには、僕が面白くて人を惹きつける人間となり、それ相当の経験を積む必要があるのだ、と。
エンターテイメントを提供する人間はエンターテイナーでなければならない、という基本的な事が抜けていた。
そして、根気の無い僕は早々に小説家になるという夢を諦めた。
自分の物語を楽しむのが人生だ
僕が本気で小説家になりたかったかと言うと、たぶん違う。
僕はとにかく面白い日常が欲しかった。
その欲望を埋め合わせるために面白い小説を書こうと思いついたのだと思う。
自分の人生を楽しむための方法を模索していたこの時期こそが僕の思春期であり、涼宮ハルヒの消失を青春の一冊たらしめた理由だ。
思春期を引きずったまま高校を卒業した僕はカナダへ留学した。
根本的には引っ込み思案な僕にとっては大きな決断だった。
突飛な経験や、人生観が変わるイベントは無かった。
東南アジアの国々を旅しても僕の意識と人間性は向上しなかった。
しかし、どこに居ようが、何をしようが、自分が自分と自分の日常を変えなければ何も変わらないという事を身をもって知れた。
今では何となくどうすれば日常が楽しくなるのかを理解しつつあるけど、それでも僕の人生の結末は見えてこない。
最高のカタルシスは訪れるのか。
その答えを知るのはいつになるのだろう。
今はただ、この当たり前の日常を、退屈だと嘆きながらも大切に生きていくのみだ。